27、へーいのってるかい

お釈迦さまが話されていた、四諦(したい)というものがあります。これは「苦諦(くたい)」「集諦(じったい)」「滅諦(めったい)」「道諦(どうたい)」の4つの諦め、すなわち、悟りのことをいいます。

 第一番目の悟りである「苦諦」は、

「人生はすべて苦悩の連続で、その集積から成り立っている」と悟ること、

 第二番目の「集諦」は苦しみのもと(根源)はすべて執着にあり、自分が何かに執着しているがゆえに、苦悩や煩悩が生まれるのだ」という悟り、

 第三番目の「滅諦」は、

「その執着やこだわりを滅すれば、楽になるのではないか」と悟ること、

 そして第4番目の悟りである「道諦」は、

「執着やこだわりを滅する実践をすること。日常生活のありとあらゆる場面で、執着を捨てる訓練をする」というものです。

この「したい」を実践すると、執着がなくなります。私はこの通りやってみましたら、執着がなくなりました。今のところ、悩み、苦しみ、苦悩、煩悩がありません。

「こうでなければならない」とか「これが好きでこれが嫌い」というこだわりを、ひとつづつらっきょうの皮をはがすように捨てていくと、結局は全部なくなってしまいます。これを「らっきーよ」と言います。

 

本当に執着が何もなくなって、生死に対する執着もなくなってしまったときに、守護霊さん(または「お蔭さま」という方)は、突然に「あなたはいつごろ死ぬ」と教えてくれます。

死ぬときを知ることによって、自分が2秒でも3秒でも動揺することがわかっていると、この方は教えません。だから、本当に心の問題が100%片付いて、そういうことに対してこだわりがなくなった人には、教えてくれるみたいです。

教えてくれないということは、まだ、生死の問題を超えていないということです。ですから、私のところに来て「自分はいつ死にますか」と聞かれても、私は教えません(小林正観さんは人の死ぬときを当てられます)。知りたかったら、本人が「お蔭さま」から教えてもらえるのです。

守護霊は、本当は2、3%心が動揺するが、強がって「私は100%悟りました。私は教わっても大丈夫です」というのは、全部見通しています。

本人がちゃんとそういう気持ちになれば教えてくれますので、私のところへ聞きに来る必要はありません。ただ、死ぬときが決まっているということだけは、皆さんに話しておきます。

私の場合、いろいろ勉強して、生死の問題も全部乗り越えてどうでもよくなった瞬間に、「あなたの前世は、実はこれこれこういう名前だった」と「お蔭さま」からいわれました。

それは全く知らない人の名前でした。

私はプロの物書きなので、人名辞典を5冊ほど持っています。最初に3冊でこの名前を調べてみました。しかし、私の教わった名前は載っていませんでした。4冊目も多分載っていないだろうと思いながら一応引いたところ、なんと載っていたのです。思わず、叫んでしまいました。

「へーい、のってるかい!」

4冊目にその名前が載っていたので、大変驚きました。本当に載っているとは思いませんでしたので。つまり、本当に実在した人の名前を教えてもらったのです。

その後、5冊目も調べました。これには15行ほど載っていました。それによると、丁稚小僧から身を起こして、仏教、神道、朱子学、陽明学などをベースにして、人の生き方を説いてまわっていた人だそうです。全国に80ヶ所の講義の場があったとあります。

この人の名前は、7文字と濁点が3つで合計10文字です。私の名前は、8文字と濁点がひとつで合計9文字です。

この10文字と9文字を並べ、19文字のうちお互いに持ち合っている文字に丸をつけると、なんと15文字に丸が付きます。ほとんど同じです。ただ文字が組み変わっているだけなのです。

知らない人の名前を教わって、辞書を引いたらちゃんと出ていて、私がやっていることと全く同じことをやっていたらしい、ということがわかりました。これはもう、輪廻転生(生まれ変わり)が他の人からの話ではなく、私自身の事実として確認されました。

これは、たとえ私がガチガチの唯物論であっても、どうしようもないですね。それがわかった瞬間から、私はもう人生に対して何も力を入れないことになりました。

私自身はトラベルライターをやってきて、旅先でひとつの宿で20人、30人から人生相談を持ちかけられました。それに答えていたら本を書くようになり、その本を読んでくれた方が、日本全国から講演会をしてくれと言うので、結果としてこのようになりました。

私自身の意思はどこにもありません。成り行きでそうなってしまったのです。

やっていることが前世と全く一緒ですから、何も考える必要がない。

「人生とは、頼まれ事をやる羽目になったら、ただやっていくだけ。それで、死んでいくだけ」という結論に到達したので、私は人生について全く力が入っていません。

皆さんや世の中の人を変えよう、幸せにしてあげよう、少しは楽にしてあげよう、などとは全く思っていません。

頼まれたら、しょうがなしに講演に来るだけです。その日にしゃべりたいことを(本当は「お蔭さま」が勝手にしゃべるのですが)しゃべって、帰っていくだけなのです。

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