このことを味覚を例にして説明します
と、 いつもまずいと言いながら食べている人がいます 実際にまずいと感じるから、そう言っていて食べているのかもしれませんが、その言葉を言うことによって、ますますその味をまずくしていますありがとうごまの例 そういう人はおいしい物に出会うと「これすごくおいしい!」と熱狂して雄叫びをあげることがあります ただし、そのお気に入りの料理が少しでもいつもより味が落ちていると感じたら、「まずいーー」といって、本当は少し味が落ちているだけなのに、す ごーーーーーくまずくしてしまうのです その逆にいつも「ありがとう、おいしいなー、嬉しいなー」と言って食べている人がいます そのひとは実際においしい物を食べていますが、笑顔で「おいしい」といいながら食べているので、先ほど紹介した人とは逆に、少し味が落ちているなぁーと感 じても全然気にはなりません そんな二人は同じ料理を食べていても(おなじ生活をしていても)まったく違う世界で生きています 歩き遍路をしますと、どんなものでもおいしく食べられるようになる(どんな出来事がおこっても感謝していられる)かもしれません |
道(TAO)の語られ得るものは、絶対の道ではない。 天下の人が皆、美を美と知ったとき、そこから醜さが起こる。 天下の人が皆、善を善と知ったとき、そこから悪が起こる。 つまるところ、有と無は互いに補い合って成長し、難と易は互いに補い合って完成し、 長と短は互いに補い合ってコントラストをかもし、高と低は互いに補い合って傾斜をつくり、 音程と声とは互いに補い合ってハーモニーをつくり、前と後は互いに補い合って結びつく。 かくして、賢者は行わずして物事を処し、言葉なくして教えを説く。 万物がそれぞれに生じ、しかも彼はそこから立ち去らない。 彼はそれらに生命を与え、しかもそれを我が物にはしない。 彼は行ない、しかも着服しない。 成して、しかもなにひとつ手柄を主張しない。 何も手柄を主張しないからこそ、そのその手柄は彼から奪い去られ得ないのだ。 (上編第一章・二章) 屈することが、完全なまま残ることである。 たわめられることが、真っ直ぐになることである。 中空であることが、一杯になることである。 ずたずたにされることが、新しくなることである。 窮乏することは豊かになることである。 多くを持つことは混乱することである。 それゆえに、聖者は<一>を抱きしめ、世界の模範となる。 彼は自分を明かさず、それゆえに輝いている。 彼は自分を正当化せず、それゆえに広く知れ渡っている。 彼は自慢せず、それゆえに人々の信用が篤い。 彼は鼻を高くせず、それゆえに多くの人間たちの上に立つ。 天下の誰ひとりとして彼を論破できないのは、彼が論争しないからである。 古人が、「屈することが完全なまま残ることである」と言うのは、 まったくもって真実ではあるまいか? かくして彼は残り、天下は彼に礼をつくす。 (上編第二十二章) |
4年間、太陽と水だけで生きる科学者 ドイツ|何も食べず、何も飲まない人々
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山田鷹夫の不食の会